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「最高の最終章を」2年・小山修世

 

🌟小山修世(コヤマ シュウセイ)
⚽️早稲田実業学校中等部 → 早稲田実業学校高等部

 


 

 

この四年間が長きに渡る私のサッカー人生の最終章です。

小学生の頃から早稲田の系属校に通わせてもらった私は、家族から多大な協力を受けてここまで生きてきました。そのおかげで幼稚園の時にサッカーに出会い夢中になってから、小学校受験を最後に、受験勉強で苦しむことなくサッカーに熱中してこれました。一度だって離れたくなかったサッカー、小学生の頃までは自信満々でプロになると宣言していたのを覚えています。しかし中学、高校と歳を重ねる内に、周りよりも得意であったはずのサッカーで、プロを目指せるレベルの人間達との差が開いていきました。そして早々とその道を諦めました。原因は明白でした。私にはプロを目指せるような器、人間力が備わっていなかったのです。つまり妥協と自己防衛だけが得意な弱い人間だったのです。

 

小学生時代に培った技術に過剰な自信を持っていた私は、中学、高校とカテゴリーが上がってもそれに磨きをかけようともせず、ただ無駄なプライドだけを持ってサッカーをしてきました。そこら中に転がる吸収すべき多くの素材に、真摯に目を向けようとしなかったあの時期は、とてもじゃないですがサッカーに打ち込んでいたとは言えません。両親が試合を観に来て的確なアドバイスをしてくれても言い訳ばかり、指導してくださった方々、先輩の助言にもまともに耳を傾けてきませんでした。しかし本当は気づいていました。もう周りより秀でた武器なんて持っていないことを。もっと現実と向き合って謙虚に鍛錬を積むべきだと。ただ当時の私はそれを素直に認めようとせず、労を惜しみ常に自分を甘やかして生きてきたのです。

 

そんな私も一応は目標を持っていました。それは、中学生の頃からただ漠然と「進学するだろうから。」という理由で目指してきた早稲田大学ア式蹴球部。正直、ここでサッカーをすれば、私のサッカー人生も合格点だろうとしか思っていませんでした。しかし高校のサッカー部を不完全燃焼で引退しそれまでのサッカー人生を振り返ってみた時、その想いは以前とは比べものにならないものになっていました。

「こうなったのも全て自分が甘かったせい。とにかく楽に生きることばかりを選んできたこんな私を、誰よりも近くで見てきた家族はどんな気持ちで支えてきてくれたのか。何度がっかりさせたことだろうか。このまま涼しい顔をしてサッカー界から退いたら、こんなに長い間振り回したのにあまりにも失礼ではないか。ずっと好きなことを精一杯できる環境を与えてもらったのだから、もう一度大好きなサッカーに打ち込んで恩返しをしたい。いやしなければならない。」と思うようになりました。

 

そうして半年後、念願叶ってア式蹴球部に入部することができた私。しかしそこで待ち構えていたのは、四年間がむしゃらに練習したとしても、とても敵いそうにないような連中でした。かつて私が目指したプロになることをまだ志している、志す資格のある人間達。「早慶戦に出て家族に恩返ししたい。」等と口にすることすら難しい程の実力差を感じました。

それでも私はここに来たことを後悔していません。それどころか、今はとても幸せな気持ちで一杯です。なぜならここは、かつてないハイレベルを実際に肌で感じることができる、そして一つでも彼らに追いつき追い越せと自分次第でいくらでも熱くなれる、私のサッカー人生の最終章には十分過ぎるほどの最高のステージなのですから。完全燃焼をして引退を迎えることを望む私にとって、必死に今日を生きなければ明日がないという理想のサッカー生活が再び幕を開けたのですから。

 

ここに身を置いた以上、ただ所属して終わりにするのではなく「ずっと憧れてきた早慶戦のピッチに、長年通わせてもらった早稲田を代表して立つ」という夢を追い続けたいと思います。そのためにもまずはサッカーをできるこのかけがえのない時間を楽しむこと、かつて私が目を背けてきたものと向き合い、そのために労を惜しまないこと、誰よりも多くのことを吸収して毎日が自己ベストだと自信を持って言える状態を目指そうと思います。そしてその積み重ねが呼び寄せる絶好調の大波に乗って、あのピッチに立ってやろうと思います。

 

最後に、なぜ大学でサッカーをやるのか。日頃から外池監督が選手達に問い続けるテーマです。日本一になりたいから、プロになりたいから、就活で強みとして使えそうだから。一人一人様々な理由があると思いますが、私の場合はただ一つ、感謝の気持ちを表現したいからです。このア式蹴球部を引退したときに、「おかげさまですごく楽しいサッカー人生でした、もう何もやり残したことはありません、長年支えてくれてありがとうございました。」と家族に伝えたいのです。

残された時間はあとたったの二年間。厳しいこともたくさんあるでしょう。それでも私は常に理想の引退からの逆算をすることで、日々の行動をデザインし邁進していきます。