japan

日本で初めてサッカーの国際的競技会が開催されたのは、1917年の第3回極東大会。この大会に日本を代表するチームとして臨んだのは「東京高等師範学校」、これが日本チーム初の国際試合でした。結果は中華民国に0-5、フィリピンに2-15と大敗でしたが、この大会を契機にサッカーの普及が進み、翌年には国内で多くの大会が開催されることになりました。

それから100年の時を経て、日本は6大会連続でFIFAワールドカップに出場するアジアの雄へと成長を遂げます。
100年の間に日本代表を率いたのは現監督森保一まで数えて31人(代行を含む)、その中でア式OBはザッケローニ着任前に代行を務めた原博実(昭和56年卒)を含めて9人。挑んでも、挑んでも跳ね返される世界の壁、長いトンネルを抜け出た先には、さらにそそり立つ世界の壁……しかし、その中でわずかながら光明がさした瞬間が3度ありました。自国(共同)開催だった2002年の日韓大会、2010年南アフリカ大会、そして2018年ロシア大会でグループリーグを突破し、ベスト16に駒を進めたのです。とりわけ、開幕2ヶ月前の電撃交代から、死闘の果てに力尽きたベルギー戦まで、西野ジャパンの闘いは多くの人たちの心に深く刻まれました。

今回は、西野朗(昭和53年卒)の駆け抜けた44日間を振り返りながら、岡田武史(昭和55年卒)をはじめWASEDA魂を胸に日本を率いた名将たちの闘いを紹介します。

(敬称略)

歴代日本代表監督に名を残すア式OB
世界への道は長く遠く
ジョホールバルの歓喜までの軌跡
驚きと苦悩、
腹をくくった緊急事態
岡田 武史 ─ フランス・1997−98年
二度目の緊急登板、
意志をもってコンセプト変更
岡田 武史 ─ 南アフリカ・2007-10年
44日間の心震える旅の行方
西野 朗 ─ ロシア・2018年
歴代日本代表監督(1921 – 2018)
No. 氏名 在任
期間
主な
大会
国際
Aマッチ
の戦績
卒業
年度
備考
1 佐々木 等 1921      
2 西田 満寿次郎 1923   2敗    
3 山田 午郎 1925      
4 鈴木 重義 1930、
1936
極東大会、
ベルリン五輪
2勝1分1敗 T15卒 ア式蹴球部の創設者
5 竹腰 重丸 1934、
1938‐40、
1951‐56、
1958‐59
  8勝6分14敗    
6 工藤 孝一 1942 東亜競技大会他 S8卒 1933‐43、1957‐99 ア式蹴球部監督
7 二宮 洋一 1951   2勝1分1敗    
8 高橋 英辰 1957、
1960‐62
  3勝2分9敗 S16卒 1955‐56 ア式蹴球部監督
9 川本 泰三   アジア大会 2敗 S12卒  
10 長沼 健 1962‐69、
1972‐76
  34勝12分27敗    
11 岡野 俊一郎 1970‐71   11勝2分6敗    
12 二宮 寛 1976‐78   6勝6分15敗    
13 下村 幸男 1979‐80   8勝4分2敗    
14 渡辺 正 1980   2勝1敗    
15 川淵 三郎 1980‐81   3勝2分5敗 S36卒 Jリーグ初代チェアマン
16 森 孝慈 1981‐85 ロス五輪予選、メキシコW杯予選他 22勝5分16敗 S42卒  
17 石井 義信 1986‐87   11勝2分4敗    
18 横山 健三 1988‐91   5勝7分12敗    
19 ハンス・オフト 1992‐93   17勝6分4敗    
20 パウロ・ロベルト・ファルカン 1994   3勝4分2敗    
21 加茂 周 1994‐97   24勝8分14敗    
22 岡田 武史 1997‐98、
2007‐10
フランスW杯、南アフリカW杯他 5勝4分6敗 S55卒  
23 フィリップ トルシエ 1998‐2002   23勝15分12敗    
24 ジーコ 2002‐06   38勝15分18敗    
  山本 昌邦
(代行)
2002   1敗    
25 イビチャ・オシム 2006‐07   7勝1分2敗    
26 アルベルト・ザッケローニ 2010‐14        
  原 博実
(代行)
2010 キリンチャレンジカップ 2勝 S56卒  
27 ヴァイッド・ハリルホジッチ 2015‐18        
28 西野 朗 2018 ロシアW杯   S53卒  
29 森保 一 2018 ‐