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「ベクトル」3年・天田光紀

 

🌟天田光紀(アマダ コウキ)
⚽️前橋ジュニアユース → ザスパクサツ群馬U18

 


 

 

 

衝撃だった。
初めて練習に参加したあの日のことを今も鮮明に覚えている。

スピード、球際、切り替え、集中力、、、挙げればきりがないが、それらのすべてが自分の想像の上をいっていた。

ただそれ以上に衝撃を受けたのは、部員の人間性だった。
1人1人が自立し、何か信念を持ち行動しているように感じた。
1つ1つのプレーに妥協せずにこだわる姿勢、相手の心に土足で踏み込み、とことん干渉し、追及する姿。

 

「WASEDA the 1st ~人として一番であれ~」

 

こんな壮大な理念でさえ納得できるようなそんな組織に恐怖感さえ抱いた。
自分が持っていたプライドなんてものは一瞬で崩れ去った。

 

 

「ベクトルを自分に向けろ」

 

 

この組織ではよく聞く言葉だ。
~他人や環境のせいにせず、全てを自分ごとのように捉えること~

自分はこの言葉が実に嫌いだった。

この言葉を言っている人に対しては、
「そんなこと言ってる時点でベクトルは外に向いてるだろ」
そんな風に思っていた。いや、そう思いたかった。

 

Bチームにいるのが当たり前になっている現実。
「それでいい、しょうがない」
全力でその現実から目を背けようとする、肯定しようとする。
そんな風に現実から逃げている自分と向き合うのが怖かったから。

 

そんな自分にとって、この言葉は深く核心を突く言葉だった。だから嫌いだった。

 

入部したころは、サッカーさえできればそれでよかった。
表向きではいい顔をして、責任を負うことから逃げるために影を潜めた。

ただ不思議なことに、この組織で活動していると次第に

「自分はチームに貢献できているのか」

そう自問自答するようになった。
これがア式の怖いところだ(笑)

 

そして、初めて嫌いだったこの言葉を素直に受け入れ、自分なりに解釈しようと試みた。

 

思い返せば、今までの自分は自分のことしか考えていなかった人生だった。
ただ楽しいから、ただやりたいから、サッカーなんてしなくていいという親の意見など聞く耳を持たずにサッカーチームに通い始めた小学時代。
自宅から車で2時間弱かかるチームにいき、当たり前な顔をして親に週4回も送り迎えをしてもらっていた中学時代。
大学受験がなくて楽だからと他県の私立高に行くことを決め、少しでもいい環境でサッカーをしたいからといってJのユースに入った高校時代。
そして、エンジのユニに憧れてア式に入った大学時代。
どこを切り取っても見事に自己中心的。
自分がよければそれでいい、それが当たり前と考えていた。
今思えば感謝しかないが、当時はその環境を与えてもらえているありがたみさえ感じていなかったかもしれない。

全く迷惑な奴だ。(笑)
家族の皆様、この場を借りて感謝とお詫び申し上げます。
後1年だけこのわがままに付き合ってください(笑)

 

それから、意識を大きく変えてみた。
この学年に対して、このチームに対して何ができるのか、どうしたら貢献できるのか。
それを第一に考えるようにした。周りの為に自分ができる行動をしてみることにした。
具体的に言えば、学年ミーティングでも積極的に発言するようになったし、1年に与えられている仕事にも積極的に取り組むようになった。
怪我人だった波崎合宿では、自分のリハビリなんてそっちのけで仕事に明け暮れた。
ちっぽけな変化かもしれないが、自分にとっては大きな一歩だった。

 

「これでいい、俺は変わった」 「よくやってる」

 

この時はそんな風に思っていた。でも、甘かった。

 

その甘さに気づかせてくれたのは、同期だった。中園の存在だった。

 

2年になり、自分たちは主務決め・学連決めの時期に突入した。
主務と学連は、役職のなかでもサッカー以外に時間を割くことが多い。
その役職をこなしながら選手をすることの大変さは、先輩方を見て痛いほど感じていた。

自分とぞの(中園)は、最終候補の2人に残った。

「お前らを信頼してる」 「お前らなら信じられる」 「任せられる」
みんな口を揃えてそう言った。

こんな言葉はこれ以上なく嬉しいはずなのに

この言葉が嫌いになった。

 

ただただ、押し付けられているようで。

「所詮自分が良ければなんでもいいんだな」と。

他人を信じられなくもなった。

 

自分はそうじゃないと思っていた。

でも違った。
自分もその1人に過ぎなかった。ベクトルは自分には向いていなかった。

 

そして、ぞのが主務を引き受ける決断をした。
「俺やるよ」 「サッカーも主務も両立させるよ」 彼はそう言った。

ぞのは、あの言葉は偽りだったと言っていたけれど、俺はそうは感じなかった。
覚悟を決めていた。かっこよかった。

 

そして自分の弱さに気づいた。
自己満だった。きれいごとだった。
覚悟を決める勇気なんか俺にはなかった。

 

出来ているつもりでいたが、結局自分のことしか考えられていなかった。

 

そして迎えた学連決め。

案の定、こちらも最終候補に残った。
でも、もう覚悟は決まっていた。

「俺がやるよ」

その気持ちに迷いはなかった。
チームに貢献したい。同期の役に立ちたい。

 

もちろん、決して選手としてあの舞台をあきらめたわけじゃない。
むしろみんなができないこと、やってこなかったことをやってやろうという思いの方が強かった。

 

初めて、“自分”にベクトルが向いた瞬間だった。

 

 

“それでも”自分は弱かった。

 

週一回ある幹事会、週末のリーグ運営。
時間がかぶった時は、練習にさえ参加できない日もある。
そんな日常を過ごしているうちに、この思いは薄れていった。
あの覚悟を、あの決意を、自分自身の手でなかったことにしようとしていた。

 

『強み』にするはずだった役職は、気づけば『重り』になっていた。

 

「学連大変だね」
「学連やってるもんな、しょうがないよな」
そんな仲間の声に甘えていた。

 

「俺、選手やりながら学連もやっているんだよね」
なかなか経験できることではないし、こんな誇らしいことはないはずなのに、
恥ずかしくて、逃げているようで周りに言えない自分もいた。悔しかった。

 

自分に向き合うために引き受けたはずなのに、現実から逃げる口実にしていた。

 

「こんなはずじゃない」 「自分は何をやってるんだ」

 

そう思いながらも
目を背け続け、目標を実現できずにいる自分対しての逃げ場にしていた。

 

そんな自分の弱さに、気づかせてくれたのはえの(榎本)君だった。
えのくんは「絶対に関東に出る」と言い続けていた。
どんな立場にいてもブレることなく。

自分も同じ目標を持っているはずなのに、なんか違った。
心のどこかでは「できっこない」そんな風に考えていた。

 

そして、10月20日の国士舘大学戦で本当に出場して見せた。
その背中で示してくれた。
えの君とは芯の強さ、志の強さが全く違ったんだと気づかされた。
かっこよかった。やはり四年生の背中は大きく逞しかった。

 

今度は俺の番。えの君を超えるよ。

 

 

ア式での3年間は、自分の未熟さを突き付けられることの連続だった。
でも、自分が目を背けたとき、その姿で気づかせてくれる仲間がいた。
こんなにもかっこよく頼もしい仲間がいるのだから、リーグ優勝はむしろ『当たり前』だったのかもしれない。そんな風にさえ思える。

 

試合にも出てない、世間的には「誰だ、お前」と思われるような自分でさえこんなにも熱くなれる。
ベクトルの向き次第では、自分を見つめなおし、それぞれが新たな側面に気づき、挑戦できるフィールドが大学サッカーにはある。

大学サッカーは、『可能性』の宝庫だ。
だからみんな大学に来てまでサッカーをするのだろう。

 

来年、こんな自分も4年になる。
きっと今後の人生においても、激動の1年になるだろう。
自分には、そんな1年間を迎える上で1つのビジョンがある。

 

「自分の大学サッカー人生が終わりを迎えるとき、仲間と心の底から笑い合いたい」

 

「何を言っているんだ」 「なんだ、そんなことか」

そう思われるかもしれない。

でも、今の自分の頭の中にはこれしかない。

このビジョンを達成できるのかできないのかは、すべて自分次第だと思う。

 

この“想い”がある今、もう道は見えている。

この道をしっかりと進んでいくために
“自分のために、仲間のために、チームのために”
自分のできることに向き合い続ける。

 

「環境を変えるには自分が変わる、自分で変える」

 

もう自分に嘘はつかない。