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3年生の想い〜松岡拓郁〜

 

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この文章を書くにあたって一つ断っておきます。これは、松岡拓郁という私自身が感じている想いで、早稲田大学ア式蹴球部に所属する誰かの想いではありません。
似たような言葉や表現が多くなってきているア式日記ですが、それぞれにそれぞれの想いがあります。
私もこれまでの文章と同じような表現を使うかもしれません。
しかし、そこには私だけの想いが存在します。
長く拙い文章になるかもしれませんが最後まで読んでいただければ幸いです。

 

「松岡は客観的に物事を見れる」
21年間の人生において何度か言われたことがある言葉です。
この言葉が好きだった時期もあれば嫌いだった時期もあります。
しかし、私は自分のことを客観的に見られると思いません。
では、なぜ人は私を客観的と表現するのでしょうか。
初めて意識的に客観的になって考えました。
そして、自分で考えることの出来た候補のうち、一番最もらしい理由は、私は他人に興味がないと思われることが多いという理由でした。
たしかに、私がこの言葉を好きだった時期は自分が興味を持たない人に言われていた時期で、
この言葉を嫌っていた時期は自分にとって大切な人に言われていた時期でした。
興味を持たない人に対しては、私は自分をさらけ出すことをせずに接します。多くの人はそうでしょうが、私はそういった色が一層強いと思います。
そういった人たちに言われるこの言葉は、私を実際にそう錯覚させ、自分を喜ばせました。
しかし、事実はそうではなく、ただ単純にそういった人たちに対して私は“客”だっただけに過ぎません。
なるほど、客である自分の言葉がその人に対して客観的であることは、至極当たり前のことです。
だから私は、客観的という言葉をいとも容易く受け入れ、気にいったのでしょう。
逆に、この言葉を嫌っていた時期は、決まって自分にとって大切な人がこの言葉を私に向けていました。
自分にとって大切な人の前でも“客”を演じてしまう自分自身が嫌いだったのです。

 

そんな私は大学二年生の時に、ア式蹴球部の学年ミーティングで、何人かの同期に「客観的に物事を見れる」と言われました。
その時は、この言葉が嫌いな時期でした。と、「ア式日記」には書くべきでしょう。しかし、正直に言うと特に何も感じませんでした。
そうです、その時の私はチームメイトにとっての“客”であることを容易に受容することが出来ました。
もっと言えば、ア式蹴球部にとっての“客”であることを認めていたのです。

 

ここで次に、最近言われて嫌いになったと書きたいのですが、最近はそう言われることがあまりありません。
しかし、それと同等の自分の中の感情を最近感じています。それは、関東リーグ二部降格という出来事によって芽生えました。
関東リーグ二部降格という事実は紛れもなく自分の人生で一番の挫折になりました。行き場のない気持ちに理由を求めて必死に考えました。そうしてたどり着いた答えは、いたってシンプルで、人生で一番本気になった一年だったからというものでした。
自分の人生の中で一番本気であっただけに過ぎず、人からすれば自分の取り組みなんて本気でもなんでもないかもしれません。
しかし、自分は脇役ながらに必死にその役割を全うしようと取り組みました。そして、他の仲間はそれ以上に、それぞれの立場であらん限りの力を振り絞り戦いました。
そのように過ごした一年だったからこそ、関東リーグ二部降格という結果が自分に挫折をもたらしたのだと思います。
その一年間の自分を客観的と表されたら、自分はおそらくこの言葉を人生の中で一番嫌うことになります。

 

そのようにして、私は最終学年を迎えることとなりました。
私は、客としてア式蹴球部に勝ってほしいのではありません。
ア式蹴球部員として、応援してくれる人に勝利を届けたいです。
そして何より、本気で日々を共に送る仲間たちと勝ちたいです。