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「ア女にいる私」vol.6 佐々木呼子

本日の担当は、4年佐々木呼子です

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今回、部員ブログリレー「ア女にいる私」を担当させていただきます、4年の佐々木呼子です。こういうブログは体言止めで“想い”的なものを語るとまだ4月なのに“感動の引退感”が出てしまうので、ですます調でこれまでの経験を話したいと思います。たぶんサッカーの話はほぼしません。拙い文章ではありますがしばしお付き合い願います。

 岩手県のど田舎に、少し冷めた人間として誕生しました。人見知りが激しく目線は基本斜め右下。家の目の前が保育所だったにもかかわらず、あの環境に身を置くのは厳しいと判断し家から保育所を眺める日々でした。そして人間との会話が苦手だったその頃、保育所の壁でサッカーボールをけり始めました。これがいわゆるサッカーを始めたきっかけになります。当時4歳。不純です。

 小学生になり、少し早めの中二病を患いました。放課後学校から盗んだチョークで町に落書きをしたり、石をけってバスをへこませ警察と一緒に謝りに行ったり、わざわざ秘密基地で友達とカップラーメンを食べたり、道路で盛大にサッカーをして学校に通報が行ったり。たくさんの人に迷惑をかけては謝る日々に、個人的な外出自粛要請が出されてもおかしくなかったと感じます。とはいえ学校では「毎回学級委員長をやってくれる人」になり少しずつ更生していきました。男子に混じってやっていたサッカーもだんだんできるようになってきたのですが、「ココちゃん=サッカー」みたいなイメージで見られるのがものすごく苦手でした。

 東日本大震災を経て中学生生活を過ごしたわけですが、ざっくり震災から学んだことを話すと、対自然での人間の無力さと、人間の強さを体感しました。矛盾しているようですが、まさにこれです。「なぜ自分の家にもうお米が少ないのにおにぎりを作ってみんなで分け合うのか?」こういった現象はまさに震災の副産物であり、人としてどう生きるべきか当時の大人たちが教えてくれました。痛みを知り、黙って耐え、その人も痛いのだろうと想い優しくする。捉え方次第ではありますが、12歳にして貴重な経験が出来たと感じています。同時に、支えて下さった皆さんに改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございました。

 高校では、親元を離れサッカーの強豪校に進学しました。はっきり言って場違いでした。代表クラスがうじゃうじゃいる中でダイレクトパスもできない私。メンタルもスキルも底辺を極め、絶望でした。フィジカルで走る橋を見ては、崩壊しないかなあと考えていました。しかし地元に帰っても親はサッカーの話に触れてきません。「あ、結果を出せていないせいで気を使わせている」それに気づいてからマインドを「橋崩落」→「スタメンで日本一」に切り替えました。それが高校二年生の夏です。遅いです。しかし、同期でキャプテンだった鈴木日奈子が私を育成してくれました。四六時中眉間にしわを寄せている彼女ですが、練習の後は毎日私のクロス練習に付き合ってくれました。そこでもミスしかしない私に、日奈子の眉間は限界を迎えそうなほどしわを寄せていました。そんな日々を繰り返すうちに試合にも出られるようになり、三年生ではスタメンになることもできました。嬉しそうな親を見るとやはり気を使わせていたのだなと、自身の察しの良さを実感しました。常盤木時代を救ってくれた日奈子には申し訳なさと感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとう。

 そして、今に至ります。ア女にいる私もこれまで同様、何か凄いものがあるなんてことはなくて、怪物たちにもまれながら日々色々なことを吸収させてもらっています。私と同じように様々な背景を持った人が集まり同じ方向を見て進んでいくこの環境が何よりも勉強になり自分を成長させてくれます。その中でどんな目標を設定しどう行動していくか、そのプロセスを丁寧に積み重ねることで結果は後からついてくるものだと考えています。

 長くなりましたが、何となく私のことが伝わっていればうれしいです。コンプライアンス的にここには書けなかったようなことも含め、たくさんの方の支えがあり、今の私がいると思っています。今後ともご指導ご鞭撻のほどよろしくお願いいたします。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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以上です。
それでは、失礼します。
阪本