diary-women

「ア女にいる私」vol.22 桝田花蓮

本日の担当は、3年生桝田花蓮です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「今は、距離だけが思いやりの表現なのです。」
 
 
この文章、目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。独のメルケル首相のスピーチを日本の方が翻訳してくれたものです。
このスピーチに、自分が直面している現状がどれほどのものであるのかを学ばせてもらいました。距離をとることは人を思いやること。この言葉がとにかく刺さりました。
 
緊急事態宣言前、まだグラウンドが使えた頃。ボールを蹴りたい一心でグラウンドに行きました。しかし、いざグラウンドに入る時、大好きなア女の仲間に会うことが怖くなり、やけにどきどきしたことを覚えています。もし私がウイルスを持っていて、しばらくして今日会った中の誰かが発熱したら…。たった20年の人生ですが、初めて感じる恐怖でした。近所の公園で偶然ア女の人と遭遇した時も、本当なら抱きつきたいくらい嬉しかったけれど、心の中でなにかが私をグッと引き寄せ、近づくことを制しました。距離は取ったまま、たわいもない話やこの先の不安を、何に追われているわけでもないのに早口で話した気がします。20分たらずの短い時間でしたが、それだけで一日明るく過ごせるような幸せな時間でもありました。なっちゃん、ありがとう。
 
さて、テーマは「ア女にいる私」でしたね。ア女に入ってからの二年間を振り返りつつ、私にとってのサッカーについて考えてみました。
 
この二年間は、「思いやり」と「自分のため」のせめぎ合いでした。
そもそも私は、集団行動が苦手で一人が好き。他人にあまり興味がない。どちらかと言えば暗くて、活発とは言えない。そんな人間です。普段は。
そんな私がチームスポーツの代名詞とも言えるサッカーに、これほどまでにのめり込むのはなぜか。私の中の最大の矛盾です。ただ、この矛盾が私にとっては、刺激的かつ幸せをもたらす、人生に欠かせないものだと感じています。
よく、「かれんってサッカーになると人が変わるよね」と言われますが、おっしゃる通りです。自分でもそう思うほど、サッカーをしているときはたくさんの人と繋がりたい。仲間や相手のことを知りたい。良いプレーをしたくてたまらないのです。耳に心地いいような言葉を並べましたが、あくまでこれは理想です。この理想をことごとく邪魔してくるのが、感情です。サッカーという、自分の強さも弱さもさらけ出せる舞台では、あふれ出る感情をコントロールするのがとにかく大変です。
話を戻して、まずは、思いやりの話からします。サッカーにおいて「思いやり」は欠かせないものです。仲間を思いやるプレーが、チームの成功をもたらすからです。チーム全員がこの思いやりを実行しなければなりません。なぜなら、常に自分は誰かに思いやられているからです。サッカーは複雑でどんどん状況が変化していくスポーツです。そこには、意識的にも無意識的にも「思いやり」があふれています。(どんな思いやりがあるかは割愛します)仲間がくれる「思いやり」はどんなときでも私のモチベーションです。よく、チームのためにプレーしようと言われますが、そんなに大きく考えなくてもいいのです。パスをくれたあの子のために、このボールを預けるあの子のために、私にできる最善のプレーをする。こんな風にボールや仲間を道しるべに、「思いやり」がつながっていく、これがサッカーだと私は考えます。
 
しかし、「自分のため」が思いやりの見えない糸を切ってしまうことがあります。
ア女での二年間、ほとんどの試合をベンチまたは、ベンチの外から見続けました。それゆえ、理想とは対極の、「試合に出るために練習をする」を感情に任せてしてしまったことがあります。試合に出るためには、紅白戦や練習試合で目立たないと。そんなことばかり考えて、自分のポジションやチームにとって必要な役割を無視して、プレーしていました。そんな私には、思いやりのかけらもありません。仲間の思いやりに気づくことも、つながりを感じることもない。そんな風に練習を終えた日は、自分に心底がっかりしました。大好きなサッカーを見失いそうで怖くなりました。最も許せないのは、試合に出られない自分でも、上手くプレーできない自分でもない。‪一時‬の感情や欲望に負けて自分の信念とは違うことをやってしまうこと。頭ではわかっているはずなのに、性懲りもなく何度も「自分のため」にサッカーをしていました。
 
しかし、時には私利私欲を捨て、「思いやり」をもって練習に臨めた時もあります。試合には出られないかもしれない。それでも、この紅白戦で自分にできる役割を全うし、次の対戦相手よりも激しいプレッシャーがかけられたら、試合では仲間が楽にプレーができる。ア女の素敵なサッカーを披露できる。そう自分に言い聞かせました。そうやって取り組んだサッカーは、どんなにミスをしようとも楽しくてたまらない、大好きなサッカーでした。さらに、その後の試合でア女が勝つと、試合に出られない悔しさよりも、みんなの喜ぶ顔に、満足感を抱く自分がいました。そうです。皆さんお気づきの通り、「自分のため」にプレーした私に残るのは後悔だけ。「思いやり」をもってプレーした私には、数えきれないほど多くのものが残ります。仲間の笑顔やチームの勝利だけではありません。図らずして、自分のためになっているのです。
神様は優しいです。絶対に0か100かの人間は創り出さない。先述の通り、私は「思いやり」と「自分のため」を行ったり来たりしてきました。きっとこの先も、頻度は変わるでしょうが、経験するはずです。何度も言いますが、頭ではどちらが自分にとって正しいか分かっています。いや、実はどっちが正しい、というものではないのかもしれません。「自分のため」を知るからこそ「思いやり」の大切さを知ることができるとも言えますね。
では「自分のため」を抜け出して「思いやり」に戻ってくることができるのは何故か。
それは、どんな時も私を思いやり続ける人がいるからです。どんなに自己中なプレーをしても、ミスを励ましてくれる。時には正面から間違いを教えてくれるチームメイト。スタッフ、ア女を応援してくれる方々、家族。もっと言えば、サッカーに関わる全ての人でしょうか。ここでは書ききれない程たくさんの支えを受けて、私は生きることができ、サッカーを好きでいられます。海の向こうで極上のエンターテインメントを届けてくれるサッカー選手たちは、「思いやり」の上に成り立つ異次元のプレーを見せてくれます。それを目にした瞬間の幸福感は、私のエネルギーに変わるのです。私を幸せにしてくれる人、生かしてくれる人、そんな人たちに私も笑顔を、幸せを与えたい。なにヒーローみたいなこと言っているのだと、恥ずかしさもありますが、それこそが「思いやり」に戻れる理由です。私がサッカーをする理由です。
 
最後に、この場を借りて感謝を伝えさせてください。
 
日々、最前線でコロナと戦う医療従事者の方々、私の、そして皆の大切な人の命を守ってくれてありがとうございます。
 
学生に対して活動自粛を命じてくださった大学の関係者の皆様。少なくとも私が自分の意志で部活、サッカーの自粛を決断することはできなかったと思います。私たちの代わりに決断し、命を守ってくれたことに感謝します。
 
この状況下で、チームのために動いてくれている監督はじめスタッフ陣。ア女としての様々なアクションを提案し実行する、4年生をはじめとした仲間たち。自分にできることを考え、仲間を、そして社会を思いやる皆の行動を、私は誇りに思います。先導してくれる4年生ありがとうございます。分からないことだらけで不安だろうけど、ア女のアクションについて行こうとしてくれる1年生。新たに頼もしい仲間を迎えられて私は幸せです。(好感度なんて狙っていません)もちろん、2年生も、愛すべき同期たちにも、ありがとうと伝えたいです。
 
世の中では、知り合いもそうでない人も、多くの人が自分にできるアクションを起こしています。そして、そのアクションに応える人たちがいます。どちらの立場でも心から尊敬でき、勇気をもらえるかっこいい人たちです。ありがとうございます。
 
 
私たちは、これまでに誰も経験したことのない事態に直面しています。「他人を思いやり自分にできることをする」これが私たちに残された道です。
コロナによっていろんなものを失いました。しかし、同時に多くのことを学びました。毎日のようにグラウンドで仲間の顔を見る。大好きな人たちとボールを蹴る。この人が好き、大切だなんて意識せずとも、人と人が会ってつながるこの当たり前が、どれほど尊いものであったか。当たり前の大切さは、きっとどんなにきれいな言葉で説明されても、聞くことはできるけれど感じることはできないものです。それを今、嫌というほど感じることができています。

今「思いやり」の大切さをこれまで以上に学び、実行し続けている私たちが、いつかの未来に創る、いや、創らなければならないサッカーがあります。サッカーが「思いやり」のスポーツだからです。世界中が同じ困難に立ち向かっています。世界中のサッカー選手たちが「思いやり」を育てています。彼らが、そして私たちが創る未来のサッカー。あなたはどんな想像をしますか?
これまでにサッカーから受けた恩恵を、私なりの形でどうにか還元していきたい。サッカーだけじゃない。いま、私の命を守ってくれている全ての人たちのために、今日も明日も、私は自分にできることをやっていきます。
 
 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上です。
明日もお楽しみに。
阪本