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Vol.1 -伝説のキャプテン- 八重樫 茂生(やえがし しげお、昭和33年卒業)

1933年3月24日、韓国・テジョン生まれ。
県立盛岡第一高校、中央大学、早稲田大学を経て、古河電工入り。
中央大学在学中、関東大学リーグ新人王を獲得。その後、郷里の先輩である工藤 孝一氏が監督を務めていた早稲田大学に編入。当時学生ナンバーワンといわれた早稲田大学の数々の勝利に多大なる貢献をする。

ア式蹴球部での主な戦績

1954~57年
  • 関東大学サッカーリーグ 優勝3回
  • 東西学生王座決定戦 優勝2回
  • 全日本大学サッカー選手権 優勝1回

JSL(古河電工)では、51試合出場、14得点を記録。ベストイレブン3回受賞。1963年度年間最優秀選手賞受賞。早稲田大学在学中に日本代表入りし、三度のオリンピック(1956/メルボルン、1964/東京、1968/メキシコシティー)出場を果たす。主将を務めたメキシコ大会では初戦の怪我で出場不可能となるも精神的支柱としてチームに銅メダルをもたらした。また、第3回アジア競技大会(1958/東京)、同第4回大会(1962/ジャカルタ)、同第5回大会(1966/バンコク/3位)にも出場。Aマッチ出場44試合、11得点。

2005年に日本サッカー殿堂入り。
2011年5月2日、脳梗塞のため78歳で永眠。

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OB諸氏から寄稿されたエピソード
赤坂 健二
(昭和39年卒業)
八重樫氏が富士通に入社する前まで富士通サッカー部の監督を務めていた。そして八重樫氏と共にサッカー部の強化にひた走った。→ エピソードはこちら
高橋 修
(昭和45年卒業)
八重樫氏が監督に就任した時、富士通サッカー部のキャプテンを務めていた。八重樫氏の高い要求になかなか応えられず苦悩しつつも、八重樫氏の優しさに支えられた。→ エピソードはこちら
工藤 大幸
(昭和48年卒業)
富士通に同期入社。監督と選手として共に富士通の日本リーグ1部リーグ入りを目指した。八重樫氏を早稲田に誘った工藤 孝一氏の息子でもある。→ エピソードはこちら

赤坂 健二氏からのエピソード

1973年に八重樫さんは協会から古河電工に戻ることになっていましたが、古河電工が会社員として迎えることしかできなくて、富士通に話がきたんです。会社から「八重樫さんを迎え入れてチームを強化する話があるがどう思う?」と聞かれ、もちろん大賛成でした。八重樫さんは、日本リーグを目指すなら体制を整えないといけないと考えていて、「選手を強化する」「公認で練習時間を確保する」「監督をサッカーだけに集中できるようにする」という3つの条件を提示したんです。グラウンドでは八重樫さん、それ以外では会社をよく知る僕がやることになって、それが上手く機能しました。八重樫さんは選手のスカウトもよくやってくれて、北海道から九州まで知り合いに電話して「いい奴はいないか」って。良い選手がいると聞いたら手分けして見に行きましたよ。チーム作りでよく言われたのは「レンガのチームじゃだめ、ムカデのチームじゃないと」という言葉。レンガはひとつ抜くと崩れるけど、ムカデは足を1本取ったって歩けると。どこかが潰されても歩けるチーム作りに邁進していましたね。

指導者として凄いと思ったのは、「上手でも気持ちが足りない選手」と「下手でも一生懸命な選手」なら後者を試合に起用したことですね。技術的に少し劣ったとしても、はるかにチームのためになる。下手は下手なりに一生懸命やったらモノになると。国立の舞台で使うので選手たちにも伝わりますよね。選手の気持ちを落ち着かせるのも上手でしたね。強いチームとの試合前で選手がびびっている時に「同じ日本人で、同じ飯食って何が怖いんだ。体格の違う190cmの外人ならまだしも同じ日本人じゃないか。まぁ、向こうがビフテキ食って、こっちが冷麦食っているなら別だけどさ」って。それでかなりリラックスしていましたね。あと、八重樫さんがよく色紙に書いていた言葉が「努力」、そして「友情」「和」でした。奥さんの名前が和子で、「今日は和ですね。子ってつけたらどうですか」って言ったら「バカ野郎」って(笑)。愛妻家でしたね。

これは後に言われたことですが、八重樫さんは、自分は全日本に行けるような選手じゃなったけど、他に負けないようにひたすら努力したと。俺ができたんだから、幼少期から恵まれた環境でやってきたお前にできないわけがないって。俺は片田舎から出てきて努力してここまでなった、だからちょっと人に厳しいのかなぁとも言っていました。もって生まれた体はどうしようもないけど、筋力トレーニングなどの努力でなんとかなる部分もある。与えられた条件でどうするかが大事だと。八重樫さんは昔から自主練習を一生懸命していて、その姿を宮本(征勝)さんたちも見て真似していたと聞いています。

「努力すれば報われるという保証はないが、努力しないで報われるということは絶対にありえない」

選手たちによく言っていた八重樫さんのお気に入りの言葉です。

高橋 修氏からのエピソード

今から37年くらい前、1973年頃だったでしょうか。当時、私は富士通のサッカー部におり、大学先輩の赤坂(健二)さんが監督兼プレーヤーとしてチームを引っ張っていました。まだ若い選手が多く、年齢的に上だったこともあり、私がキャプテンを務めておりましたが、今の日本代表の長谷部選手のような、技術・体力・知力に優れ、素晴らしいキャプテンシーを発揮するキャプテンとは正反対のありさまでした。チームは関東リーグで首位に浮上できず、首脳部はきっと歯ぎしりされていたことでしょう。そんなチーム状況を打破すべく、古河電工から八重樫さんを総監督として迎えることになったのです。

今でも憶えていますが、最初の合宿は千葉県の検見川グラウンドで行われました。広く起伏に富んだグラウンドで合理的で激しい訓練が繰り広げられました。大学の菅平合宿でもそうでしたが、合宿後は何だか不思議と自信がついたような気がしました。八重樫さんの指導は、私たちが当初予想した厳しさを全身に表したようなやり方ではありませんでした。もともと、とことん道を究めてこられた方ですので私たちにも同様なアプローチがあるかと覚悟していましたが、違っていました。なかなか上達しない私たちを見ても、だいたいはニコニコと笑っておられたのです。一番我慢していたのは八重樫さんだったのでしょう。

私は、2年くらい前から足首の腱鞘炎に悩まされていて、回復して強くチームを引っ張っていくのはもう難しいのではないかと思っていました。ここで自ら身を引き、新しい有為の人材でスタートするチャンスではと考え、チームから離れることを決意し、八重樫さんにそのことを伝えました。

「そうか、それは残念だな。わかった」と言っていただきましたが、気のせいかほっとされたような複雑な笑みが溢れていたように感じました。

その後、チームは補強も進み、さらに力をつけ、翌年には日本リーグに加入するまでに成長しました。そして、このチームがその後のさまざまな苦難を乗り越えて現在の川崎フロンターレへと進化していくのです。私は劣等生でしたが、一度も怒られませんでした。暖かいご指導に大変感謝しています。

工藤 大幸氏からのエピソード

僕が1973年3月に早大を卒業した時に、八重樫さんは古河電工から監督として富士通に引っ張られたので、同年4月に同期入社となりました。当時、富士通サッカー部は完全にアマチュアの「同好会サッカー」で、17時まで仕事してから軽く練習するチームでした。

卒業前から八重樫さんが富士通に来るっていう噂があったので、1973年の納会で「八重樫さん、富士通に入るって本当ですか?」と聞いたんです。そしたら「嘘だから心配すんな」って。僕は正直アマチュアの練習スタイルを望んでいたので、「あぁよかったぁ」と思っていたら、3月くらいに「合宿やるから出て来い!」って連絡があって(笑)。それで合宿に行ったんですけど、また練習が早大の時より厳しくて(笑)。まいったなぁと思いましたね。

八重樫さんがチームを引っ張るようになってからは、富士通は完全にセミプロですよ。会社もサッカーに力を入れ始めていて、仕事は半日とかで後は練習でした。八重樫さんの指導も凄かったですね。味方にパス出す時に右足に出せ、左足に出せと、そこまで要求されました。

当時はキック&ラッシュだとか、長い放り込みで背の高い選手がヘディングでゴールに入れるスタイルのチームが多かったんですけど、八重樫さんはどかーんとボールを蹴るのを非常に嫌って、ボールを蹴るくらいなら後ろで繋げと言われました。今でいう「ボールポゼッション」とか、プレーの精度に物凄くこだわっていましたよ。シュートの精度や、パスの精度、クロスの精度。当時はそんな言葉はなくて、だからそういうことを求めた人は八重樫さんが初めてだと思いますよ。今でこそ多くの指導者が言いますが、それを30年前から選手に求めていたのですから。凄いことですよね。やっぱり独特のサッカー観を持っていた方でした。