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Vol.2 -浦和レッズの父- 森 孝慈(もり たかじ、昭和42年卒業)

1943年11月24日、広島県生まれ。
広島・修道高校、早稲田大学を経て三菱重工入り。
1962年ユース代表として第4回アジアユース大会に出場。早稲田大学では1年からレギュラーとして活躍。1963年度と1966年度の2度学生三冠を達成するなど、早稲田大学の黄金期を担う。

ア式蹴球部での主な戦績

1963~66年
  • 天皇杯 優勝2回
  • 関東大学サッカーリーグ 優勝3回
  • 東西学生王座決定戦 優勝2回
  • 全日本大学サッカー選手権 優勝1回

在学中の1964年に第18回オリンピック競技大会(東京)のメンバーに選出され、以後1976年まで日本代表として活躍。1968年のメキシコオリンピックでは全試合に出場し、HBとして中盤をリードし銅メダル獲得に貢献した。また、アジア競技大会、FIFAワールドカップメキシコ、西ドイツ両大会予選、ミュンヘン、モントリオール両オリンピック予選などに出場。Aマッチ出場56試合、2得点。

JSL(三菱重工)では146試合出場、28得点を記録。JSL1部優勝2回、天皇杯優勝2回。ベストイレブン5回受賞。引退後は、日本代表コーチを経て、1981年日本代表監督に就任。1985年、FIFAワールドカップメキシコ大会アジア予選最終戦では惜しくも本大会出場を逃すが、プロ化を進言するなど今日の代表チームの礎を築いた。
1992~93年浦和レッズ監督、1995~97年横浜マリノスGM、1998年アビスパ福岡監督、1999~2001年同GM、2001~06年浦和レッズGM。

2006年に日本サッカー殿堂入り。
2008年に横浜GSフットボールクラブ顧問。
2010年に日本サッカー名蹴会名誉会長。
2011年7月17日、腎盂がんのため67歳で永眠。

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OB諸氏から寄稿されたエピソード
青島 直樹
(昭和48年卒業)
自身の少年サッカーチームが森氏主催の大会に参加したことがきっかけで、森氏との仲を深める。森氏が2008年から顧問を務めていた横浜GSフットボールクラブのGMでもある。→ エピソードはこちら
加藤 久
(昭和54年卒業)
現在、JFA復興支援特任コーチを務める。森氏が監督を務めた1985年のメキシコワールドカップ予選では主将として「森ファミリー」を牽引。森氏と最も関わりが深かった人物の一人である。→ エピソードはこちら
原 博実
(昭和56年卒業)
現在、日本サッカー協会技術委員長を務める。森氏とは日本代表だけでなく、共に三菱重工で働き、浦和レッズ創設期にも関わりが深い。「森ファミリー」と称されるメンバーの一人である。→ エピソードはこちら

青島 直樹氏からのエピソード

僕が森さんと出会ったのは1989年に苗場で行われたサッカースクールです。その総責任者が森さんで、早稲田の先輩だっていうので挨拶したことがきっかけでした。僕は小学生のサッカーチームをもっていて、「森杯っていう少年サッカーの大会を野辺山の五光牧場でやっているから来いよ」って言われたんですよ。加藤(久)にも同じように「青島さん、五光牧場は凄くいい所ですから、そこでサッカーやるのでどうですか。森さんの大会なので」って声をかけられて。それが森杯の第3回くらいだったんですけど、それから1度も欠かさず出ています。だから20年以上、ずっとお世話になっていますね。

森さんは、子供が大好きで、うちのチームの子供たちはずっと森さんに見てもらっていました。森杯は毎年10チームくらいを集めて開催されています。森さんのネームバリューがあれば、どこかと提携すればもっと大きな大会ができるのに、「そんないっぱい来たら面倒見きれないから」って言ってしないんですよ。そういう方でした。

森さんが浦和レッズのGMを降りた時、これは千載一遇のチャンスだと思って僕がGMを務めている横浜GSフットボールクラブのトップチーム「GSコブラ」の総監督になってほしいとお願いしたんです。小学生の頃に森杯に参加していた選手が多く在籍するチームですよって言って。その後に一度試合を見に来てくれて、なかなか面白いと言ってくれて、2008年2月頃からチームの顧問になってくれました。「何でうちの顧問になってくれたんですか?」と聞くと、「お前らみたいな、最後は町のクラブに関係したいんだ」と言われて。今までずっとJリーグとかでやってきた方が、「究極はお前たちがやっているようなことに絡んでいくのがいいのかもしれない」って言ってくれたんです。

今年の6月に「浦和で鰻を食べる会」を開いて、森さんも来て一緒に鰻を食べて、それが最後でした。入院したことを聞いて、お見舞いに行こうと考えていたのですが、そのまま亡くなってしまって。とても悔いが残ります。森さんは「志の会」の理事長だったんですけど、そのメンバーも森さんがいなくなって本当にどうしたらいいか分からない、と言っていました。やっぱりそれだけ本当にみんなの親分でした。威張るわけでもない、でもオーラは凄かったですね。権力争いがあまり好きじゃなくて、そういう意味では世渡りはそんなに上手くはなかった気がしますけど、それを上回る人間性がありましたね。人の悪口を絶対言わない人でした。

「シンプルサンプル」「ただそれだけ」が口癖でしたね。僕の言うことは何でもウェルカムな人でした。森さんの遺志を継ぐ意味でも、僕らは森杯だけは絶対絶やしちゃいけないなって。これからもずっと続けていこうと思っています。

加藤 久氏からのエピソード

11月の初めにNHK BSで「伝説の名勝負」という番組が放送されました。2時半の長時間に及ぶもので、内容は1985年10月26日に行われた、メキシコワールドカップアジア東地区最終予選、国立競技場での日韓戦を取り上げたものです。日本のサッカーにプロがなかった時代、その日韓戦はワールドカップ本大会に最も近づいた試合とされています。

日本代表の監督は森さん、私はその時の選手でした。韓国は、この試合が行われた1985年の2年前、1983年にプロリーグをスタートさせており、この試合は伝統の日韓戦の中でも、日本にとっては特別な意味をもつものと言われています。日本はホームで1対2、アウェイでは0対1で敗れ、念願の本大会出場はなりませんでした。そして、この敗北が「このままでは韓国に勝てない」「日本もプロ化しなければ駄目だ」という切羽詰まった認識を多くのサッカー関係者に与えたのです。そういう空気の中で、サッカーのプロ化ということを最も切実な思いをもって受け止め、そして関係者に訴え続けたのが森さんでした。

その当時の日本代表の合宿は、今では考えられないほど長期間に及んだこともありました。1982年のスペインワールドカップの時には、開催国スペインでキャンプを張り、その後ヨーロッパ各地で強化試合をした後に、そのままマレーシアの大会に出場したこともありました。約1か月半。私たち選手は、合宿、遠征を通じて、自然に森さんの人柄に魅せられていきました。森さんが、練習、試合、そして日常生活で声を荒げた場面を見たことはありません。私たちは怒られたという経験は一度もないのです。どんな状況においても、徹底して私たち選手を守ってくれたのが森さんでした。森監督のもとでコーチを務めていた花岡(英光)さんや岡村(新太郎)さんも、森さんは何があってもまず選手のことを考えていた。いつも森さんの思い出話をする時にそう言います。

森さんは無私の人だったと思います。私心、私欲を感じさせませんでした。だからこそ、多くの人が森さんのことを尊敬し、森さんに親しみを感じていたのだと思います。常に自分のことよりも、選手のこと、仲間のこと、そして日本サッカー全体のことを考えて発言し、行動していたのです。

今の日本代表は「ザック・ジャパン」と呼ばれています。しかし、私たちの時の日本代表は『森ファミリー』と呼ばれていました。周りの人々には、それだけの結束力を感じさせていたのだろうと思いますが、『ジャパン』ではなく『ファミリー』と呼ばれたことを、私はとても誇りに思っています。もちろん、森 孝慈という人間が監督を務めていなければ、代表がそう呼ばれることはなかったでしょう。

12月10日に、森さんの奥様を交え、ずっと続けていた『森全日本OB会』を開きました。今はそれぞれ忙しい立場にある元選手たちがたくさん集まりました。「森さんはいないが、森さんの薫陶を受けた我々が、その『縁』を大事にして、年1回は『森全日本OB会』をやろう」そう皆で決めたところです。

選手時代、あれだけ“濃い”生活をしていただけに、私は森さんとはいつでも会えるという気持ちをもっていました。しかし、それは間違いでした。もっとたくさん話をしておけばよかった、もっと森さんの近くにいればよかった、今はとても後悔しています。森さんがいなくなったことを考える度に、とても寂しい気持ちになりますが、森さんのような温かい無私の人間になれるよう、これからも努力していく所存です。

原 博実氏からのエピソード

代表監督としてロサンゼルスオリンピック予選や、ワールドカップのメキシコ大会の予選を一緒に戦いましたが、それ以上に森さんが三菱重工と浦和を結びつけたっていうのは大きいですね。

森さんが代表監督をしていた1985年に日本と韓国が決定戦までいった試合があって、日本は韓国に負けたんですけど、その時にもう韓国にはプロリーグができていたんですよ。その時から、日本にもプロリーグができないと世界にどんどん置いていかれると、森さんが色んな人達に話した経緯もあって、その後日本にもプロリーグができたんですよ。

当時、会社の方針やホームグラウンドの問題で三菱重工のプロ化は色々大変だったんですけど、森さんが動いてくれて、浦和に三菱をもってくると最終的に決めてくれたんです。森さんが色々動いてくれなければ浦和レッズは誕生しなかったし、それがやっぱり「浦和レッズの生みの親」と言われているところだと思います。

それから1年間の準備期間を経てプロチームになった時に、しばらくチームを離れてプロ化の仕事などをやっていた森さんが監督として戻ってきたんです。それで、僕はまだ選手をやっていて、まだやれるとも思っていたんですけど、「お前、手伝ってくれ」と言われて。「選手やめて指導者になれ」って。まだ選手でやりたいけど、いずれは指導者になりたい気持ちがあったし、ましてや尊敬していた森さんと一緒に仕事できる機会はないだろうと思って。結局それで僕は選手をやめて指導者になったんです。森さんじゃなかったら選手を続けていたと思いますよ。

代表監督の時も、グラウンドでは厳しい部分もありましたけど、グラウンドを離れたら凄く人懐っこい人でした。試合が終わった後は、焼き肉が好きだったので、みんなで焼き肉食べて、それからカラオケに行っていましたね。森さんが1番に歌ってね、歌は上手かったし、格好も良かった。選手を子供みたいに思ってそういう付き合いをしてくれていましたね。本当にフランクに話をしてくれて、「お前らがこれからの日本を背負っていかなきゃいけない」とも言われました。今でも森さんの時の代表の集まりが年に1回あって、岡田(武史)さんや松木(安太郎)さん、木村(和司)もそうだし、みんな今サッカー界でやっているんですよ。みんな忙しいし、普通なら集まらないと思いますけど、森さんだから集まるんですよね。今年もやりますよ。

僕は、それから浦和の監督、FC東京の監督をやった後、協会の強化委員長という仕事がきて、自分はまだ監督をやりたい気持ちもあったので、森さんに相談したんです。自分で考えろと言われるかなと思ったんですけど、「やれ。俺が背中を押す」って。お前がやってくれ、俺もサポートするからと。そのことがこの仕事を受けた大きな理由でもありますね。でも、森さんにも協会やJリーグの上の方の仕事をやってほしかったなとも思っています。

みんな森さんのことが本当に好きでしたね。ああいう人は珍しいですよ。誰とは合うけど誰とは合わないというのがなくて。あれだけサポーターに愛されたのも、変に媚びるわけでもなく紳士に対応して。浦和だけでなくどこに行っても愛されていましたね。プレイヤーとしてもインテリジェンス溢れる人でした。やっぱりもったいないな、早すぎるなって思いますけど、残された僕らが森さんのためにも日本サッカー、三菱、浦和、早稲田、そういうところで頑張らないといけないと思います。特に僕は一番深く関わったメンバーの一人で、今こういうポストなので、森さんの遺志を継いで日本のサッカーをもっと良くしたい思いが強いです。