interview-vol1

【特別企画】追悼座談会

2011年11月22日(火)、八重樫 茂生氏、森 孝慈氏を偲んで、お二方と関わりの深かった先輩方にお集まりいただき追悼座談会を行いました。ともに日本サッカーの一時代を築いた先輩方にお二方の人柄、学生時代、サッカー観などについて語っていただきました。

- 八重樫氏の1年先輩であり、サッカー部寮で生活を共にした織田さん。学生時代の八重樫氏はどんな選手だったのでしょうか。

織田 輝明氏織田 とにかく彼は「練習の虫」でしたね。朝から晩までシュート板に向かってボールを蹴っている。こんな虫がいるのかって思うくらいにね、それくらいサッカーと向き合っていました。それから、自分の着るものやシューズは他人に磨かせないで全部自分で磨いていましたよ。自分が使うものに対する愛着、集中力は並みの人間じゃなかったですね。朝起きてから、何をするにも常にサッカーについてどうだと考えていました。こういう選手は私が長くサッカーをやっている中でも彼以外に見当たりませんね。
あと試合でも絶対に妥協を許さなかったですね。パスでもシュートでも、精一杯やっているかどうかを非常に彼は気にしてね、ちょっといい加減なミスをしたりすると非常に不機嫌に叱り飛ばしていましたね。彼のボールに対する執念というか、サッカーへの追求は決して怠らなかった。私にとって彼は一番身近に、サッカーに対する姿勢を教えてくれた人ですね。言うは易く行い難いピッチ上での彼の雄姿は今でも思い浮かびますよ。

- 東京オリンピック(1964年)に向けて学生からも代表選手が選ばれていた当時、松本さんはその選出がきっかけで八重樫氏とのお付き合いがはじまったそうですね。

松本 育夫氏松本 1年の時に選出していただいて、それからは私にとって八重樫さんは1番信頼できる存在でした。それで、4年生の時に「チームをどうしても勝たせたい」と思い、八重樫さんに練習を見てもらえるようお願いしました。何より八重樫さんのサッカーを現役学生が学ぶべきだろうと思いましてね。古河電工に直接伺って、時間がある時にグラウンドに来ていただけないかと。そしたら仕事の合間をぬって週2回くらい来てくれました。
それで八重樫さんが紅白戦のBチームに入るとAチームは勝てないんですよ。そのくらい卓越した技術と戦術をもっていた方でした。何しろメルボルン、東京、メキシコと三度のオリンピックに出場した選手ですからね。サッカーの考え方、厳しさ、技術、戦術、体力、精神力含め全てのものが他を上回っていました。
サッカーについては「パスの重要性」をものすごく厳しく教えられましたね。日本代表の合宿でも、1mでもずれたら取ってくれませんでした。とにかく正確に、受け手側にとって必要なパスを蹴れと。1mずれたらサッカーにならないじゃないかと。そこで初めてパス精度の大切さ、プレーの厳しさを教えてもらいました。
あと、川崎フロンターレの監督の話がきた時(1999年)、八重樫さんに「お前しかいない、立て直すのはお前だけだ」と言っていただいて。ホームゲームが終わった後はいつも必ず一席設けてくれました。お酒が好きでね、よく一緒に飲みました。夜遅くまでその日の試合内容と次節について話し合いました。そうやって指導者としての指導も受けましたから、私にとって八重樫さんは「サッカーの指南役」といえる大先輩ですよ。

八重樫氏の卒業後、1960年の関東リーグ優勝以外はほとんどタイトルが獲れず、ア式蹴球部の成績は低迷しますが、松本さんのお話にもあった八重樫氏の指導協力などにより、松本さん(4年)、二村さん(2年)、釜本さん(1年)、森氏(1年)を擁する「ア式の黄金時代」と呼ばれる時代に入っていきます。

- 当時の森氏はどんな選手だったのでしょうか。

松本 森の話ですけどね。入部初日に1年生が練習終わった後、グラウンドの周りを走らされたんですよ。そしたら森が途中で倒れて「だめだぁ」って。「どうしたんだ」って聞くと「腹減って走れません、これ以上」って言ってね。
渡邉 直樹氏(一同笑い)
渡邉 森は1年浪人して早稲田に入学したんです。ずっと予備校で、いわゆる貧乏学生ですから、腹いっぱいに飯を食ってなくてね。
松本 腹減ってだめだって言うのは、僕もサッカー選手をいっぱい見てきたけど他にいないね(笑)。しかし、それくらいピシっと自分を表現できた人ですよ。その後のサッカー人生を見てもやっぱり「自分のサッカーはこうだ」というのをしっかりもっていた選手ですね。
釜本 森さんは僕と学年は一緒だけど年がひとつ上なんです。もともとよく知っていて、それが同じ年代で入ってくるので非常にやっかいでね。渡邉なんか「森」って呼ぶでしょ。僕は「森さん」でしょ(笑)。

- 森氏はとにかく焼肉が大好きだったそうですね。体は細いのにスタミナがあり、高校時代から「青竹」というあだ名があったそうですが。

釜本 しかしよう食べたな、森さんは。やせの大食いだな(笑)。
渡邉 焼肉屋をハシゴするんだから(笑)。焼肉屋で待ち合わせして、その後にカラオケ行って、そしたらもう1回焼肉。そのくらい焼肉が好きでしたね。
松本 あと、森はカラオケも上手いんですよ、プロ級だったな。

- 森氏が1年の時に天皇杯優勝(1963年)。2年の時も3位となりました。4年の時(1966年)には日本サッカー史上最後となる天皇杯の学生優勝を果たしていますね。

二村 1965年もね、ベスト4までいったんですよ。それで東洋工業(のちのマツダSC、現サンフレッチェ広島)に負けたんだけど、孝慈が鎖骨を折ってテーピングで固定して、それでも試合に出てくれって言われてね。終了間際に交代したけど懸命に戦っていましたよ。
釜本 むちゃくちゃにやられたな、俺も削られたし。次の日、森さんと二人で東大病院に行ったなぁ。あの試合は狙われっぱなしでした(笑)。

- 東京オリンピックにも学生として出場された釜本さん。当時、代表には釜本さんの他にもア式蹴球部出身の選手が多く選出されていましたね。

釜本 邦茂氏釜本 僕が20歳の時です。ア式出身のすごい先輩が多くおられて、代表合宿では僕らが一番年下でした。八重樫さんに川淵(三郎)さん、宮本(征勝)さん、それから松本さんでしょ、あと桑田(隆幸)さんもね。そういう先輩方にすごく可愛がってもらいました。
八重樫さんとは、そこで初めて一緒にプレーしたんですけど、グラウンドでは本当に怖かったです。今でも覚えているなぁ、タイで試合した時、中央にポーンとパスしたんだけど、走ってきた八重樫さんの後ろにボールが行っちゃって。そしたら八重樫さんが立ち止まって「このバカタレが!どこに出しているんだ!」って。
(一同笑い)
松本 慶應とのOB戦でもそんなことがあったなぁ。八重樫さんは次のプレーを考えてパスを出す人ですからね。八重樫さんが某先輩にパスを出したら、パスが合わなかったんですよ。それで先輩が「ここへくれよ」って言ったら「お前なんかと一緒にやれねぇ」って出て行って、そのまま帰っちゃったんです。それくらい「こだわり」をもってプレーしていましたよ。
二村 昭雄氏二村 ヤエ(八重樫)さんにはよく練習に来てもらってね。紅白戦の時に、ヤエさんに股抜きしたんですよ。そしたら後ろからバッカーンと蹴られて(笑)。この人はなんちゅう人だと、ほんと負けず嫌いでね、すごく怖かったですよ。でも、それからしばらく経って日本リーグが始まった頃に「二村、焼肉食いに行こう」って言われたんです。当然僕は肉を焼く役だと思って行ったんですけどね、ヤエさんが肉を焼いてくれるわけですよ。「二村、食べぇ」って。僕がやりますよって言っても「ええんだ、ええんだ」って。あの時は怖い人だとずっと思っていましたから、最初は喉を通りませんでしたよ。
鈴木 僕はその当時の厳しさを知らないですけど、八重樫さんとは飲む方でお付き合いさせていただきましたよ。僕と鬼武(健二)と川淵さんで「伏見会」を作ってね。年に2回やっていて、この間ちょうど60回目だったから、もう30年近く続いているのかな。同年代たちが集まって、いまだに盛り上がっていますよ。

- メキシコオリンピック(1968年)では、初戦で大怪我を負いながらもチームを牽引し「伝説のキャプテン」と称された八重樫氏はもちろん、三菱重工でプレーしていた森氏の活躍もあり、銅メダル獲得という日本サッカー史に残る快挙を成し遂げましたね。

メキシコオリンピックでの銅メダル松本 八重樫さんは一度引退されたんですよね。1960年のヨーロッパ予選から帰ってきて引退したのかな。でも、クラマー(デットマール・クラマー)さんが東京オリンピックとメキシコオリンピックには彼がどうしても必要だと言って呼び戻したんですよ。クラマーさんは、すでに「ゲームメーカー」という言葉を使っていてね。バックスから繋ぐ、ゲームメーカーを中心としたチーム作りにどうしても必要だってことで、八重樫さんは34歳で現役復帰したんですよ。もし、クラマーさんのチーム作りがなかったら、会社(仕事)に専念していたと思いますよ。
釜本 八重樫さんは僕よりも年が11も上でね。東京オリンピックの時から4年間ずっと一緒にやってきてメキシコオリンピック予選、その夏の海外遠征にも一緒に行って。その時で35歳ですからね、本当に大変だったと思いますよ。でも、試合に懸ける意気込みはどこへ行っても、どこと試合しても凄いものがありましたよ。初戦のナイジェリア戦で前半18分にラフプレーを受けて松葉杖の状態でね。当時は日本代表でもユニフォームは自分たちで洗濯していた時代で、中1日での試合でしたから僕ら年下が洗濯しようとすると、八重樫さんが来て「お前ら休め」って。そういう方だったんですよ。この人のためにも勝とうという思いもありましたね。

サッカーと真摯に向き合い、ア式蹴球部や日本代表、そして日本サッカーを飛躍に導いた八重樫・森両氏。そして、お二方と共に戦い、日々全力でサッカーに取り組んでいた先輩方だからこそ、50年以上経った今でも昨日のように当時を語れるのだと思います。

- 最後に、ア式蹴球部の現役生に向けてメッセージをお願いします。

松本 勝負への「こだわり」ですかね。一つひとつのプレーへの自己追求がもっと必要だと思います。今はサッカー以外で時間を過ごす方法が沢山ありますから、サッカーに集中するべき部分で少し甘さがありますね。昔は24時間サッカーのために生活していた人が沢山いましたから。「やっといて良かったな」と思えることを作れる時が今なんですよ。
釜本 その通りですね。今の自分たちで良いのかと、自問しながらサッカーにもっと時間を費やしてほしいですね。僕らも負けることが一番嫌で、勝ちたいからもっと点を取るために練習しましたよ。大学4年間はそれだけで良かったなって思えるし、その後の人生にもきっと活きてくると思います。
二村 「恵まれすぎて辛抱が足らん」の一言ですね。昔は土のグラウンドで、ガタガタでもワンタッチでボールコントロールできるように考えながら必死で練習しましたよ。僕は体が小さくて細く、相手に当たられたら止まってしまいますから、ワンタッチでどんなボールでも足元に置けるよう、常に相手を想定しながら繰り返し練習していましたね。
鈴木 光男氏鈴木 13年間、大学の試合はほとんど観ていますが、決定的な欠点はスタミナ不足かな。他大と比べて練習量が少ないのかな。去年より頑張っていても、他の大学がもっと頑張っていたらいつまで経ってもダメですよね。
松本 あと、紅白戦の迫力が違ったよね。昔はBチームがAチームを破ろうとする気迫が凄かったからね。紅白戦の「激しさ」「厳しさ」が、ア式が歴史を築いた大きな要素になっていると思いますよ。
渡邉 ア式は本当に良いチームだと思いますよ。だからこそ、先輩方が築いて下さった「伝統」をどうやって良い形で継承していくか考えてほしいね。「Waseda the 1st(常に早稲田は一番であれ)」を選手一人ひとりが考える環境・機会がないといけないね。
松本 全体練習のほかに個人練習をどれだけ自分に課せるかも大事だね。八重樫さんは、全体練習が終わってから自分の練習をして初めて「負けん気」が出てくる、とよく言っていましたよ。みんなと一緒の練習では絶対に出てこないですよ。
二村 森も満足できなかったら練習後にシュート板に向かってボールを蹴っていましたよ。基本的なことだけど頭で試合をイメージしながら何度もボールを蹴っていましたね。
織田 八重樫も練習のない月曜の朝早くから必ず練習していました。自分が弱ければ強くなるにはどうすればいいのか考える。それを考えられないと良い選手にはなれませんからね。

試合に負けたくない、相手に勝ちたい「気持ち」。そのための個人の追求。自分に厳しく向き合ってきた先輩方から学ぶことは沢山あります。先輩方が築いてきたア式蹴球部の伝統を知り、活かし、後輩に伝えていきたいと強く感じています。
この時代のア式蹴球部を築いていくのは私たち一人ひとりなのだという自覚と責任を持ち、これからも早稲田のサッカーに向き合っていきたいと思います。

本日は貴重なお話をいただき本当に有難うございました。
そして、改めて八重樫 茂生氏、森 孝慈氏のご冥福を心からお祈り申し上げます。