tradition

Vol.3 -永遠のキャプテン- 川淵 三郎(かわぶち さぶろう、昭和36年卒業)

「スポーツを愛する多くのファンのみなさまに支えられまして、Jリーグは今日、ここに大きな夢の実現に向けてその第一歩を踏み出します。」

1993年5月15日、川淵のこの言葉で開幕したJリーグは、今年20周年を迎えた。
東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会の評議会副会長として、東京五輪開催にも尽力。喜寿(77歳)を迎える今もなお、日本の未来のために、精力的に活動を続けている川淵三郎。日本にJリーグという文化を作り、国際的な大事業を行うマクロな視点と、地域に密着した草の根活動を大切にするミクロな視点を合わせもつ永遠のキャプテンは、サッカー界、いや日本スポーツ界の先頭に立ち続けている。

【略歴】
1936年12月3日、大阪府生まれ
大阪府立三国丘高校でサッカーを始める。1957年早稲田大学商学部に入学。ア式蹴球部に入部。

ア式蹴球部での主な戦績

1957~60年
  • 関東大学サッカーリーグ 優勝3回
  • 東西学生王座決定戦 優勝2回
ア式蹴球部在籍中の1958年、国際親善試合の香港戦で日本代表デビューを果たす。
卒業後は古河電工でプレー。1964年の東京オリンピックでは、アルゼンチン戦で1ゴール1アシストの大活躍で逆転勝利とベスト8進出に貢献する。
日本代表での通算成績は国際Aマッチ26試合出場8得点。
現役引退後は古河電工監督を経て1980年〜81年に日本代表監督を務める。1988年のJSL総務主事、JFA理事就任を契機に日本サッカーのプロ化を牽引。
1991年にはJリーグ初代チェアマンに就任。日本サッカーを強化すると共に、「地域密着型」のクラブチームづくりに努める。
1994年JFA副会長・W杯招致委員会実行委員長に就任。2002FIFAワールドカップの招致に成功。2002年の日韓W杯開催を成功に導く。
2002年JFA会長に就任した際には、親しみやすい会長を目指し愛称を「キャプテン」とする。自らの使命を「キャプテンズ・ミッション」に定め、サッカーの普及と強化、さらにはスポーツ環境充実の推進に邁進し続けている。
2010年には日本サッカーミュージアムの館長に就任(任期2年)。2013年3月からは公立大学法人首都大学東京の理事長を務めている。

主な顕彰・褒賞など

2003年 PRパーソンオブザイヤー大賞 / 2005年 AFCアワード・ダイアモンドオブアジア賞 /
2006年 FIFA功労賞 / 2008年 名誉都民・第5回日本サッカー殿堂入り / 2009年 旭日重光章
色褪せることのない情熱と日本サッカーへの想い
Jリーグ誕生の仕掛人 1968年メキシコ五輪での銅メダル獲得以降、日本代表は結果を残せず、長い低迷期に入る。また、JSL(※1)の人気不振が嘆かれ始めたことから、日本サッカーの活性化の動きが高まり、日本サッカープロ化の動きが本格的に始まった。→ 続きはこちら
企業スポーツから
市民スポーツへの脱皮
川淵がプロ化において最もこだわったこと、それは、「地域に根ざしたクラブづくりの実現」である。下部組織を持ち、地域住民と自治体、サッカークラブ、企業が三位一体となって地域を活性化し、気軽に様々なスポーツを楽しめる場所づくりを目指す。それをJリーグの目指す姿とした。→ 続きはこちら
こだわりの原点 川淵が手掛けた日本サッカーのプロ化。その背景にあったのは1960年8月18日ドイツ・デュッセルドルフ近郊の「デュースブルク・スポーツ・シューレ」というスポーツ施設でキャンプを行った経験であった。→ 続きはこちら
こころのプロジェクト
―日本の未来を担う子どもたちへ―
現在、日本ではJリーグが定着し、ワールドカップでもベスト16進出という結果を二度も残した。サッカーの普及に手ごたえを感じた川淵は、次の未来へ動き出した。それは子どもたちの育成だ。→ 続きはこちら

画像をクリックして拡大画像をご覧ください。(拡大画像をクリックすると元に戻ります)