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開催国として恥ずかしくない戦いを ─ 1964年 第18回大会(東京) ─

アジア初のオリンピックとなった東京大会。相手は、世界60数カ国から厳しい予選を勝ち抜いてきた強豪国、開催国として恥じることのない成績を収めることが大命題となっていた。
前回大会のローマ大会は予選で敗退しており、世界との距離を強く感じていた日本は、1960年西ドイツより「日本サッカーの育ての親」ともいえるデットマール・クラマー氏を専任コーチとして招へい、高橋英辰(昭和16年卒/故人)代表監督とともに、東京オリンピックに向けた強化をスタートさせた。国際試合の経験を得るために強豪国を招いての対抗戦を開催し、また50日間にわたる欧州・ソ連遠征を実施した。

1964年4月10日、検見川東大グラウンドに代表候補約40名が集結、6月28日まで80日間にわたる長期合宿が行なわれた。この合宿に当時19歳の釜本邦茂(昭和42年卒)も初招集されている。
7月17日、強化合宿から選出された約20名の精鋭は、約2ヶ月にわたる欧州・ソ連遠征へと向かった。各地を転戦し、最後にスイスでグラスホッパーと対戦、4-0で勝利した。グラスホッパーは以前大敗を喫しているプロチーム、それから勝利したということで自信をつけて帰国した。

帰国後、オリンピック正式メンバーが決定、現役からは森・釜本(ともに2年)、OBからは八重樫(昭和33年卒/故人)、川淵三郎(昭和36年卒)、宮本征勝(昭和36年卒/故人)が選ばれた。

28年ぶりのオリンピックでの勝利

日本はイタリア、アルゼンチン、ガーナと同じ予選D組に入り、初戦は国立競技場でイタリアとの対戦が組まれていたが、アマチュア資格問題でイタリアが棄権したため、3チームでリーグ戦を戦うことになった。
10月14日、小雨交じりの駒沢競技場は満員の観衆で埋まっていた。前半は個人技に勝るアルゼンチンが優勢、0-1で折り返し、後半に全てがかけられた。54分八重樫の突破から杉山が同点のゴールを決める。しかし、アルゼンチンに再びリードを許す、息詰まる熱戦が繰り広げられる。81分、左サイドで杉山からのクロスを受けた釜本がピンポイントクロス、これを川淵がダイビングヘッドで決めて再び追いつくと、その1分後、川淵のシュートのこぼれ球を小城がゴールへねじ込み逆転に成功、待望の決勝トーナメント進出を果たした(初戦ガーナとアルゼンチンは1-1の引き分け)。ベルリン・オリンピックのスウェーデン戦から28年目のオリンピックでの勝利だった。

激闘実らずグループ2位

中1日おいた16日ガーナと対戦。勝つか引き分ければ首位通過が決まる。より守備的な布陣をとった日本だが、八重樫の活躍もあり一時は2-1とリード。しかし、疲労のため後半くずれ2-3とガーナに敗れ、グループ2位となり、準々決勝をチェコスロバキアと戦うこととなった。

地力の差を見せつけられたヨーロッパ勢との戦い

10月18日のチェコ戦。ところも同じ駒沢競技場、東欧の大きな壁が日本の行く手をはばんだ。当時、「小路を通すパス(ウルチカ・パス)」と称されたチェコの精密なパスサッカーに、なすすべもなく0-4で敗れ、メダルへの夢を絶たれてしまった(チェコは最終的には準優勝、優勝はハンガリー)。
大阪で行なわれた6位決定のための大阪トーナメントでも、ユーゴスラビアに1-6と大敗、立ちはだかる東欧の壁をくずすことはできなかった。ちなみにこのときのユーゴのCFは、後に日本代表監督を務めるイビチャ・オシム氏であった。

(敬称略)


《こぼれ話》
成績はベスト8止まりというものでしたが、大会を通して得たものは多かったようです。チームの中核として働いた八重樫茂生氏(昭和33年卒/故人)も、ア式蹴球部50周年誌の中に、『当時の代表チームは進歩の途上で、4年後のメキシコ大会時にピークを迎え、輝かしい戦績を残したわけであるが、あの栄光の下地はこの頃に築かれたといえよう』との文章を残しておられます。


強豪アルゼンチンを下して得た自信、体感したアフリカ勢の身体能力、サッカー先進国との距離。そのすべての経験を財産とし、日本は4年後のメキシコで大きく羽ばたくことになるのである。