olympic

綿密なゲームプランがもたらした奇跡 ─ 1996年 第26回大会(アトランタ) ─

プロが解禁された1984年のロサンゼルス大会以降、オリンピックの参加条件は何度も変更になった。そしてこの大会から、23歳以上の選手も3人まで(OA枠)起用できるようになった。
この大会に向けて、加茂監督のフル代表とは別に、西野朗率いるオリンピック代表チームが組織され、若手選手のフル代表参加は原則オリンピック終了後とされた。

1996年3月、マレーシアのシャーアラム・スタジアムで最終予選が行なわれ、サウジアラビアと死闘を繰り広げた末に、2-1で勝利しオリンピック出場を決めた。メキシコでの銅メダル獲得以来、実に28年ぶりのことである。
日本は、ブラジル、ナイジェリア、ハンガリーと強豪国揃いのD組に入り、7月21日初戦をブラジルと戦うことになる。そして、真夏の太陽の降り注ぐマイアミ・オレンジボウルスタジアムで、今も「マイアミの奇跡」と語り継がれるサッカードリームを演じるのである。

予選を戦ったメンバーで王国に挑む

初戦の相手は、王国ブラジル。OA招集されたキャプテンのベベトやリバウド、23歳以下の選手でも不動のGKジダやロベルト・カルロスなどフル代表選手が多数選出されており、怪物ロナウドも名を連ねていた。

これに対し、西野朗(昭和53年卒)はOA枠を行使せず、予選を戦った23歳以下のメンバーで挑む。その狙いを西野は「若い選手に、できるだけ多くの国際経験を積んでもらいたい、将来の代表選手をどれだけ多く育成できるかがこのチームのテーマ。始めからこの方針を変えるつもりはなかった」と振り返っている。同時に、選出されたメンバーは、候補とされたフル代表の選手と比べても遜色がなかったというのも事実だ。

果てしない戦いの末の大番狂わせ

キックオフとともに、優勝候補ブラジルは猛攻をしかけてくる。ベベトのFKが、壁に入った前園にあたり右にこぼれる、川口が辛うじてキャッチ。危険なラストパスが何度も日本のゴール前を横切る。川口のスーパーセーブと、チーム一丸となった守備で数々の危機をはね返し、前半をスコアレスで折り返す。後半に入ってもブラジル優位は変わらない、獲物を仕留めようと次々と襲いかかるセレソン。
しかし、やがてその時はやってきた。26分、前園がマークを振り切りボールをキープし、路木へ展開する。路木はワントップの城へ山なりのクロス、だが、わずかに足が届かない・・・。チャンスもついえたかと思ったその瞬間、ブラジルDFとGKの連携が乱れボールはゴール前に転がり出る。そこへ走り込んだ伊東が無人のゴールへ押し込んだ。

残り20分、「永遠にタイムアップのときは来ないのではないのか」とさえ思える、長く厳しい戦いが続く。雨あられのようにブラジルのシュートがゴールを脅かす。しかし、日本チームは最後まで破綻することなく個々の役割を全うし、ついにタイムアップの時を迎えるのである。

守備の意識を高め少ないチャンスを生かす

綺羅星のようなスター選手揃いのブラジルではあったが、日本チームは綿密なスカウティングを行ない、スタメンを予測。ブラジルの弱点を見ぬくとともに、選手たちにはブラジルの強いところは極力見せずに、スキをチャンスに変えることを繰り返し伝えたという。
「GKとCBの穴を突いた決勝点は、決して奇跡ではなく自分たちにとっては狙い通りの得点だった」と、西野は後日インタビューに応えている。

勝ち越しながら決勝Tへ行けず

金メダル候補ブラジルを撃破した日本は、第2戦をナイジェリアと戦い0-2で敗れてしまう。そして、この2失点が後の命運を分けることになる。
最終戦はハンガリー戦、メキシコ大会で0-5と大敗を喫した相手である。開始早々の3分、ハンガリーに先制を許す。40分、前園が自ら得たPKを落ち着いて決め同点とする。決勝トーナメント進出のために得点を上積みしたい日本は攻撃を仕掛けるが、逆に49分、ハンガリーに追加点が入る。リードされたまま刻々と時が過ぎ迎えたロスタイム、上村のヘディングが決まり同点に追いつく。さらに、ドリブル突破した伊東のクロスを前園があわせて逆転にもち込む。誰もがもう1点と願ったが、無情にもタイムアップ。3-2のスコアで試合は終了した。

その結果、日本はブラジル、ナイジェリアと2勝1敗で並んだものの、得失点差で両国を下回り、決勝トーナメントへ進むことはできなかった。両国はその後順調に勝ち進み、再び決勝で相まみえナイジェリアが金メダル、ブラジルが銀メダルを獲得している。

(敬称略)


厳しいアジア地区予選を勝ち抜き、本大会でも死のグループでともいえるD組で2勝した西野ジャパン。守備的に過ぎたなどの批判も一部あるが、ここを戦った選手の多くが、1998年初めて参加したフランスワールドカップの中核メンバーとなっていくのである。